歴史編〜西施〜

「歴史の影に女あり」この言葉を一度は聞いた事があると思います。
戦国時代や三国志、王朝など、どんな歴史も男性が主体となって語り継がれた物ばかりですが、
その影には必ずすごい女たちが居ました。
そんなすごい女たちについてを書いていこうと思います。

現代の映画や漫画、ゲームのキャラクターなどになるほど意外と人気がある「影の女たち」。
今回は中国四大美人の一人と呼ばれた「西施」(せいし)についてです。
本名は施 夷光(し いこう)。紀元前5世紀に実在した人物で、春秋時代末期の浙江省紹興市生まれだと言われています。西施は貧しい薪売りの娘として産まれ、谷川で洗濯している姿を見出されて越国の王宮へ召し出された。たとえ乱れ髪で粗末な格好をしていても美しいと評されたそうです。
「沈鱼美人」(ちんぎょびじん)
これは西施の美しさを表す四字熟語です。彼女が川で洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまった。という意味です。すごい例えですが、それほど西施は美しかったという事ですね。しかし彼女にも唯一「欠点」があったそうです。纏足(てんそく)をするほど、彼女が居た時代では女性は足が小さい方が美しいとされていました。ですが、西施は「大足」だったとされています。今の時代だったら普通のサイズなのかもしれませんね。

西施の美貌は、呉へ復讐に燃える越王・勾践(こうせん)の耳に届き、彼女を秘密兵器として呉の王・夫差(ふさ)の元へ送ります。俗に言う「美人の計」ですね。
呉と越は半世紀近く戦い続けた宿命のライバルです。
「呉越同舟」(ごえつどうしゅう)
これは仲の悪い者同士や敵味方が、同じ場所や境遇にいること。本来は、仲の悪い物同士でも同じ災難や利害が一致すれば、協力したり助け合ったりする例えです。呉と越は父祖以来の因縁の宿敵同士で、日本の諺で言うとまさに「犬猿の仲」だったという事です。

紀元前496年、越王・勾践(こうせん)は攻め込んできた呉の軍を奇策で破り、その戦いで流れ矢によって当時の呉王・闔閭(こうりょ)は死去。
父の仇を討つため、新呉王・夫差(ふさ)は固い薪の上で寝るほど憎しみを忘れる事なく打倒越に燃えていました。そして紀元前494年の戦で大いに越を打ち破ります。
越は呉に隷属する形となり、越王・勾践(こうせん)は呉王・夫差(ふさ)の前にひざまずき、ようやく帰国の許しを得て生きながらえます。
「会稽の恥」(かいけいのはじ)という諺はこの事からと言われています。
戦いに大敗した屈辱。または、他人から受けたひどい屈辱の意味です。

この時、越王・勾践(こうせん)は屈辱を忘れないため、部屋に苦い肝を吊るし毎日それを舐めることで呉への復讐を心に誓った。
「臥薪嘗胆」(がしんしょうたん)
これは呉、越両国の王の故事から出来た四字熟語です。
将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦いきもをなめるという意味ですが、ここでは「臥薪」(がしん)は呉王・夫差(ふさ)。「嘗胆」(しょうたん)は越王・勾践(こうせん)。両国の王が取った行動の事をさしていると言えます。
そして、越王・勾践(こうせん)が思いついたのが、「美人の計」。つまり、西施を呉へ送り、その美貌で呉王を骨抜きにし呉を滅ぼそうと企んだのです。
越王・勾践(こうせん)は西施を王宮に呼び、数ヶ月貴人になるための訓練を受けさせます。そして密命を下しました。西施は越王・勾践(こうせん)の愛妃という設定で呉王・夫差(ふさ)の元へ渡ります。その設定の狙いは、越王は自らの愛妃を呉王に捧げるほど、服従の意を示しているという事だった。案の定、呉王・夫差(ふさ)はご機嫌で早速西施を妃にしました。
その美貌と特訓の結果も相まって、ほどなくして西施は呉王のお気に入りの妃となり、次第に呉王・夫差(ふさ)は政治をおろそかにし、西施と過ごす時間を増やしていきました。
ここから呉は少しずつ崩壊へと向かっていきます。
西施はあらかじめ教えられていた通り、呉の国力を削るために贅沢三昧を夫差に要求します。
夫差は国庫のお金をつぎ込んで西施のために次々と庭園や離宮を作ります。
この時作った庭園・館娃宮(かんわきゅう)は現在中国江蘇省に遺跡が残っています。
春には花が咲き乱れ、夏は冷たい井戸水で水浴びをし、秋には紅葉が目を楽しませ、冬は洞で暖を取る。西施が訪れるたびに大規模な饗宴や歌舞が催されます。
どんどん西施に夢中になっていく呉王を見かねた大臣達は王に意見を申し立てるが、呉王はまったく聞く耳を持たず、それどころか心ある忠臣を左遷させたり、越以外の国に大規模な軍勢を送ったりなど、呉崩壊への足音が少しずつ迫ってきます。
一方、越はこの間約20年、辛抱強く国力を蓄え、千載一遇のチャンスを待っていました。
そして紀元前473年、越王・勾践(こうせん)率いる越軍は呉の領土に怒涛のごとくなだれ込みます。国事を放置し、毎日西施と遊び惚けていた呉王は力なく宮殿で捕らわれ降伏。王の自害により呉は滅びます。

呉王は越の狙いどおり「美人の計」によって国を傾け崩壊の道へと辿ったのだった。この事から、西施は呉を滅ぼした「傾国の美女」と呼ばれた。呉の滅亡後、西施についての資料は存在せず、その後どうなったかは諸説あります。
役目を終えた事を悟り、自害したと言われていますが本当のところは知る由もありません。

現在も中国には西施にちなんだ地名が数多く残されており、
最も有名なのは中国杭州市にある西湖です。その他にも西施橋などがあります。                  

また、西施について唐の詩人李白(りはく)や王維(おうい)などが詩を詠んでいる他、松尾芭蕉の「奥の細道」で「象潟や雨に西施がねぶの花(さきがたや あめにせいしが ねぶのはな)」と詠んだ事も有名です。

ここまで読んで下さり、ありがとうございます。今回は歴史の影に居たすごい女たちPART-1
「西施(せいし)」についての記事を書かせて頂きました。中国4千年の歴史と良く言いますが、その歴史の背景にはこんなすごい女たちがまだまだ居ます。引き続きこのブログで紹介していきますので、よろしくお願い致します。

西湖

馆娃宫

馆娃宫

西施桥

西施銅像


最終更新日:2017/06/08

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